国内でも注目度が上がりはじめている幼少期からの「グローバル教育」。今回は、Play Groupやホームステイ等を活用し、国内にいながらにして幼少期から身近に世界を感じる経験をされてきた一般社団法人グローバル教育推進プロジェクト(GiFT)専務理事・事務局長/グローバル教育コーディネーターの辰野まどかさんに、グローバルな視点で子育てと教育をされてきたお母様のお話、英語へのアレルギーを克服したエピソード、高校時代に人生を決断させたスイスでの国際会議のお話などについてお伺いしました。
グローバル教育コーディネーターとして、人と人、人と世界を繋ぐお仕事をしている辰野さん。子ども時代に経験した、自分と世界を繋いだ出来事を教えてください。
「世界と繋がる」とは少し違う感覚なのですが、子どもの私にとって「外国」は比較的身近な存在でした。というのも、父は商社に勤めていたので英語はもちろん、語学が大好きでドイツ語、中国語のできる人でした。母は、専業主婦なのですが、18歳の時に、NPOの国際教育プログラムSing Out Asiaに参加。3ヶ月プログラムで、アメリカ合衆国で、25州巡ったそうです。そこで、もともとの社交家に、さらなる磨きをかけたと聞きます。
そんな両親のもと、子ども時代は、幼稚園入園前に、その地域に住んでいた外国人のお母さん有志10人が創ったPlay Groupという集まりに参加していました。当時、神戸に住んでいたのですが、プリスクールがまだ一般的でなかったので、お母さん達が自分たちで機会を創り、おうちを解放して子どもたちを一緒に遊ばせていたのです。ここでの大人やお友達との会話はすべて英語。
お友だちは当たり前のように外国の子でした。いろんな国の子どもやママたちが、家に遊びに来ていたという記憶があります。
辰野さんがグローバル教育に関わるきっかけを作ったお母様は、
大変な社交家で、家にはいつも外国の方がいたそうですね。
はい。母は、ホームステイや留学生を積極的に受け入れて、アメリカ、エストニア、タイ、フィジー、オランダ、ウズベキスタン…、家にはいつもどこかしらの国の人がホームステイしていました。私が小学3、4年生くらいの時には、アメリカ人一家4人が夏休み中、ホームステイしていたこともあったほどです。
母は、外国人を家に招くと決まって、“お国の料理”を作って欲しいと頼みました。小さい頃からいろいろな国の本場の味を試すことができたおかげで、食わず嫌いもありません。でも、ある日、フィジーの子に「ごはんを作って」と頼んだら、フィジーでは、土を掘って葉っぱを敷き、食材を包み込んで、蒸し焼きにするらしいのですが、「ここの庭は狭いから無理」と断られたりして(笑)。
兄と妹がいるのですが、私たち兄妹が身の回りのことを自分でできる年齢になると、母は、ホームステイしている留学生に、私たちのシッターを任せて、「インドに行ってくる!」などと数週間、家を空けたりすることもありました。
家にいながらにして国際交流が盛んだった辰野さん。
小さい頃から英語は当然のようにできたのでしょうか?
日常会話は問題なかったのですが、帰国子女が多く集まる中学に入って、すっかり落ちこぼれました。先生の発音を正すような生徒までいて、完全に置いてけぼりを食らってしまって。「日本人なんだから、日本語を話せていればいい!」と英語そのものに反発し、中学時代は、英語を完全放棄。
そんな状態が、高校1年生まで続きました。英語に対する意識に変化があったのは、初めて一人で臨んだアメリカのサマースクール。自分が想像したよりも自分の英語で伝えることができ安心すると共に、海外でも、一人でも、やれるという実感が持て、英語そのものに対する反発から自由になれました。思えばそれは、自我の目覚めだったのかもしれません。